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漢江以南のシナウィ圏(巫俗音楽圏)に属する全羅道地域の巫覡歌からパンソリが生まれたと判断される。現在もシナウィ圏の常連が歌う敍事巫歌にはその連行形態、長短、音調などでパンソリと類似した点を容易に見つけることができる。
したがって17世紀に壬辰倭乱と丙子胡乱という激変期を経ながら急激に成長した平民層の現実的不満、新しい欲求と最下層賎民として身分の変化を夢見た巫覡たちの理想が結合してパンソリという新しい民俗芸術が誕生したとものと考えられる。
ソリがいつ、どのように、どんな人によって歌われ始めたのか詳しくは分からない。ここではパンソリを構成しているさまざまな要素を通して推定して見ようと思う。パンソリは'長いストーリーを歌う様式'だ。だからパンソリが作られるためには先にパンソリの土台になる話がなければならないし、これを歌わなければならない必要性と歌う人がいなければならない。
パンソリの根源になった話を根源説話と言うが、これはずっと以前から韓民族内に伝承されたものなどである。[水宮歌]の根源説話は【三国史記】に記載されている '兎と亀の話'だと言われている。これは金春秋(キム・チュンチュ)が高句麗に請兵として行った時、間者に捕まって獄に閉じこめられて死んだが、高句麗の臣下である先道解が獄に尋ねて来てくれたという話だ。
【沈清歌】の根源説話としてはやはり 【三国史記】にある '孝女至恩' などが挙論されたりする。このようにパンソリの根源になるストーリーはずっと前から韓民族内部に伝承されたストーリある。[春香歌]の根源説話として有名なのは趙在三(純祖時代の文人)が【松南雑識】で取り上げられているもので、南原の府使(知事)の息子李令息童妓である春陽と愛し合った後にソウルに上がった。春陽は貞節を守っている中、新しい上官である卓宗立に殺されたが、好事家たちがこれを悲しん、歌を作り、春陽の恨みを晴らして貞節をほめたたえたという内容だ。'薄色峠伝説'も [春香歌]の根源説話としてよく言及される。官妓ウォルメの娘であり、天下の醜女である春香が李令息を慕って病気になる。ウォルメの計巧で二人が一夜の縁を結んだが、李令息は何もなかったように上京してしまい、春香は自決をする。薄色峠に漂う春香の寃魂によって新しい上官たちが赴任する道で死ぬようになるが、科挙に合格した李令息が赴任して春香の伝記を作り、祭祀を執り行なった後、芸人によって歌われるようになったという事だ。
しかしパンソリはある一つの説話がそのまま一つの作品になったというよりも、さまざまな説話が合わさって成り立ったと考えるのが正しい。さまざまな話が混ざって長くて複雑なストーリーになったと見るからだ。ところで前で取り上げている [春香歌]の根源説話はパンソリの発生と係わり非常に重要な暗示を与えている。まず [春香歌]というパンソリが芸人によって歌われるようになったのは春香の恨みをなぐさめるための巫祭から始まったというのだ。だから長いストーリーを歌わなければならない必要性も生じ、またその歌を歌った人々が誰かも明らかになる。寃魂を慰めるための目的に巫女たちがするようになったという事だ。巫祭は巫女がするからだ。このようにして芸人たちによってパンソリは巫祭から始まってパンソリに発展しながら、内容も「口惜しくも怨めしく死んだ春香」から「死ぬ目に遭った春香」に、人物は醜女から美人に変わったものと考えられる。
パンソリは韓民族の生と文化の深層に根付き、,長年の歳月をかけて自分変貌の過程を経ながら伝承されてきた伝承芸術なので、発生の根源を計算すると韓民族の歴史の根源にまで溯ることになるに違いない。それで鄭魯湜(チョン・ノシク)のような人はパンソリの根源を新羅時代の花郎の音楽にまで溯ったりする。しかし現在私たちがパンソリとして認識することができる形態にまで変貌·発展した時期はあまり久しくないだろう。その時期がどの時代かは確かではない。
文献を通してパンソリの存在を認めることができる最初の時点は英祖の頃だ。英祖の時代の人である晩華斎、柳振漢の文集【晩華集】の中の [家事春香歌 200句]が記載されていることが,現在までの文献で確認することができるパンソリに関する一番古い記録だ。作者である柳振漢は【於于野談】の作者である柳夢寅の6代宗孫で、英祖の時に天安地方を中心に隣近に知られた文人だった。彼の息子夥(クム)が書いた文章によれば、柳振漢は肅宗38年(1711)に生まれ、正祖15年(1791)に亡くなった。また夥(クム)が書いた【家庭見聞録】の中に「父親が癸酉年(1753年)に南方へ湖南の文物を調べ、その翌年の春に帰家し、春香歌の一片を作ったが、これも当時の貴族から非難を浴びた」という部分があるのを見て、柳振漢は1754年に [春香歌]を作ったことが確認される。
ところでこれ [春香歌]の終りに「老いた詩人が打令の歌詞を書く」という句節があり、【晩華本春香歌】は著者である柳振漢が湖南の山河文物を見物する中に聞いた事があった打令([春香歌])の歌詞を漢詩に変えておいたものと推定できる。だからこの詩を通して湖南地方にこの時すでに[春香歌]が存在し、歌われており、そしてまた忠清道の貴族が感動して漢詩に翻訳できるほど洗練されていた事が分かる。また特別に湖南を見回った後に作ったのを見て、忠清道地方にはこの時期にパンソリがなく、あったとしても普遍化されていなかったという事が分かる。
【晩華本春香歌】の内容は現在の【春香歌】と非常に似ている。長いストーリーを短い漢詩に訳してあるので詳細な内容は知ることはできないが、概して話のあらすじと登場人物は現代のものと一致している。したがって実際 【春香歌】の発生時期はそれから相当な期間を遡らなければならないだろう。この時期に生存したと考えられる歌い手は河漢潭(ハ・ハンダムもしくはハ・ウンダムという)、崔先逹、禹春大などである。禹春大は1810年頃に書かれたものと思われる宋晩載の【観優戯】という詩に登場する。
長安では皆が禹春大の話をするが
今日誰が満足に彼の歌を引き継ぐことができよう
一曲終われば酒樽の前には千反の絹が積まれるが
権三得と牟興甲が少年では有名だ
この詩の内容から見れば、1810年頃に禹春大はすでに名前が広く知られた名唱であり、その後継者が誰になるかが関心事になっていることが分かる。したがって禹春大は18世紀末頃から活動を始めたと見るのが妥当だろう。しかし、禹春大についてはそれ以外知るすべがないが、河漢潭と崔先逹は全州神廳(専門芸人の庁)の大房と都山主だったと言われている。'神廳'は巫夫(巫子の家系の男)たちの組織体で、当時巫夫たちはさまざまな芸能に携わっていた。大房は各道にある神庁の長で、都山主は大房を補佐する職務で 2人がいた。
崔先逹については忠清道の結城面の人だと言う説もある。しかし河漢潭【甲申完文】という芸人たちの集団請願に対する官庁の処分を書いた文章に名前が登場するところを見て、全州神庁の大房だったのはほとんど確実だ。このような事実を見る時、全州を中心にした地域がパンソリ史の初期に決定的な役割をした事が分かる。
また一つ【観優戯】で注目される点は、宋満載がこの詩を書くようになった縁由を、「わが国では科挙に合格すれば芸人·才人たちを呼んで歌と芸能を見物する風俗があるが、今春わが子が科挙に合格しながらも家が貧しくて、人々に芸能を施すことができないので」この詩を作ると明らかにしている点だ。これを見れば初期のパンソリは科挙及第のような宴に招待されて行く形態で存在した事が分かる。
最初巫祭から始まったパンソリが人生の重要な契機に至る記念の宴と共に存在したというのだ。しかし初期のパンソリは音楽性やストーリー内容が今に比べてずっと単純で貧弱だったものと考えられる。今のような芸術性の濃いパンソリはずっと後に生まれた芸人たちによって生み出された。前述したようにパンソリは芸人、その中でも特に巫夫たちによって歌われ始めた。それでパンソリは巫歌と長短や発声法がほとんど同じである。またパンソリ唱者たちはほとんどがすべて南道地域の巫子の家系から出た。
このような理由からパンソリが巫歌から出たと言う主張を '巫歌起源説'と言う。ところでパンソリを音楽的特性から言えば南道の民謡 [六字ペギ]に似ている。もちろんパンソリに含まれる音楽全部が [六字ペギ]に似ているわけではない。パンソリの中心を成している悲しい調べである界面調が[六字ペギ]に似ている。パンソリが南道民謡である六字ペギに似ている音楽から出たという主張を'六字ペギトリ起源説'と言う。'トリ'は民謡メロディーの地域的特色を示す言葉だ。最近にはまた朝鮮後期に存在したパンノルウムの一種である倡優集団の芸人歌から出たという主張が挙げられた。倡優集団はパンノルウムの中でも歌を特技とした集団を示す。しかし巫歌起源説や六字ペギトリ起源説、パンノルウム起源説は根本的には異なる主張ではない。
南道巫歌は音楽的には六字ペギトリになっており、倡優集団はパンソリをする芸人たちと同じく巫子の家系と深い関連を結んでいる集団だからだ。したがってパンソリが南道地域の巫歌との深い関連の中で生まれたというのはほぼ確かだであろう。このようにして歴史に浮上したパンソリが多くの人気を呼ぶようになると、パンソリの歌詞を書いて本にするようになった。それがいわゆる【春香伝】とか【沈清伝】のパンソリ係小説だ。もちろんパンソリの歌詞がそのまま小説になったのではない。パンソリは歌で、小説は読書物である。当然移行する過程で読みやすく直されている。
歌は歌った瞬間にすぐ消えてしまうし、またパンソリは常にはじめから最後まで歌うのではなく、部分的にだけ歌うのが普通なので先後が合わなくても良いが、本で読む場合には一貫性がなければならないので、その点においても多少の修正が加えられた。このようにしてパンソリ文学という巨大な集合体が形成された。しかしパンソリ文学とパンソリは厳然に異なるので混同してはならない。
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